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コメント3 橋本努 「規範理論の核心部へ迫れ」

宇佐美誠編『法学と経済学のあいだ』勁草書房、201011月刊行、191-195頁、所収

那須耕介論文、山田八千子論文、嶋津格論文へのコメントです。

 


 

 最初に那須先生へ。まず、センの問題提起をどう受け止めるかですが、センにとって「ある平等の追求は、必ず別の平等の犠牲の上に成り立っている」という認識がありますね。けれどもリバタリアンだったら、まずこの認識に納得しないんですよね。リバタリアンのいう平等が本当の平等なんであって、他の平等主義が言っていることは平等ではないのです。ところがセンは、さまざまな平等の要求を全部、ここに書いてあるような従属変数みたいにして、ある種のガバメンタリティの視点からバランスよく追求しよう、という話になっている。思想家からすれば、あるいは規範理論家からすれば、すごく行政的に見えるんですね。行政的な思考は、それぞれの平等の価値を深く追求しないので、実行可能性ばかりを考える。ぼくは常にひっかかっています。

 戻りますけれども、3ページのところで那須先生は、@平準化の要求、Aシビル・ミニマムの要求、B流動性の要求、という3つのバランスを考えているようですね。実はこれに入っていないものが、センのいう「ケイパビリティ(潜在能力)」です。この概念にはちょっと面白い一面があると思います。たんなるベーシックなケイパビリティを目標にして平等政策を実施しても、実際にはその水準を超えて、よりすぐれたケイパビリティを実現できてしまうことがある。

 例えば、図書館だとか、コンサート・ホールだとか、美術館だとか、そういった施設へアクセスする機会を、政府がベーシックなレベルで提供していくと、それは実際には当初の目標を超えて、ある種の卓越主義を可能にしますね。ベーシックな本だけを揃えた図書館とか、ベーシックな音楽しか演奏しないホールだとか、そういう利用の制限はなかなかできないので、ある人は、図書館やコンサート・ホールを利用して、卓越主義的な美徳を身につける可能性があります。平等主義者は、ベーシックなケイパビリティの要求だけに実現目標を絞り込むことが難しい、卓越主義への扉を開くわけです。

 平等主義者は、「すっぱい葡萄」の喩えを用いて、人々の適応選好形成を批判しますね。人々は劣った選好しか形成していない可能性があるので、その選好を変化させて、もっと優れた選好をもつことができるように、そういう機会を万人に提供すべきだ、という議論です。すると平等主義者は、各人の選好(嗜好)が、ベーシックな水準を超えて、さまざまな機会のなかで陶冶されることを望んでもいるわけです。実際、ラディカルな平等主義者は、かなり高級な嗜好までも選択肢として各自に再配分すべきだと要求しています。これはすでに、資源の基礎的な水準を提供するとか、資源の平均的な利用可能性を提供する、といった目標を超えて、ある種のマルクス的な、能力の全面開花の環境条件としての資源という理想にいたると思うんです。

 ベーシック・ケイパビリティを超えて、もっとディーセントな(真っ当な、上品な)ケイパビリティ、さらにそれを超えて人間の能力の全面開花というところまで、実は左派の主張が拡張されていく。そういう理論的示唆をどう考えるのかが問題です。さまざまな平等の理念をバランスよく追求しようというのではなく、潜在能力の全面開花を徹底的に追求しようという、ラディカルな主張をどこまで認めるのか。あるいは意図せざる結果として招くのか。

 最後に、最初のところに戻って話すと、結局、統治力の観点から平等の実現を考えるガバメンタリティ(統治性)の理論というのは、かなり粗雑にできていて、理論についてはいろんな解釈ができるようにしておいて、理論家は踏み込んだ議論をしない。各国の行政エリートの人たちに、その理論を具体的な文脈で活かして欲しい、という助言に留まるんですね。それ以上に言うと批判されてしまうので、上から押し付けることは抑制して、読者が下から何か発言できるようにしておく。つまり、その理論を理解した人たちが、それぞれの現場で、自分はこういうやり方がいいとか、こういう解釈がいいと考えて、自主的に行動できるような理論構造にしておく。でもこれは規範理論として見れば、かなりいいかげんなところで終わっているわけで、私は規範理論家として怠慢ではないかと思います。決定的にまずいのは、諸々の要求のバランスをもっぱら重視して、現場で諸価値を争うための方法を出していかない点です。本当は、現場はもっと価値の拮抗状態であって、さまざまな矛盾する要求があるはずなのに、それが争われずに行政的に処理されてしまうのではないか。センの場合もそうなんだけれど、「なぜ平等なのか」というのではなくて「何の平等か」と言ったとたんに、理由を争うような価値のボキャブラリーは議論する必要がないんだというような方向に向かってしまうと思うんですね。そこに納得するかどうかという問題です。

 山田報告へのコメントに移ります。山田先生の著作『自由の契約法理論』はとてもエキサイティングで、この本は3つの大きな主張があります。一つはリバタリアンとして自律の価値を重んじる、もう1つは契約の自己責任を重んじる、最後に根源的な規約主義という、ラディカルなコンヴェンショナリズムを適確に意義づける、というものです。ですが今日の報告は規範的な含意については直接立ち入りませんでしたので、そこでもしご著書での主張につなげるなら、どんな含意を引き出すことができるでしょう。

 可能性として3つあると思います。1つは、ノーティス・プリーディングですが、ノーティスなのか厳密なのかを選択できるシステムを構築することができれば、これはリバタリアンな自律の理想に適合すると思うんです。選択肢がそれだけ増えるからです。そういうシステムを提案するようなかたちの規範理論が可能になるのではないか。もう1つは、リバタリアンな契約の理念に照らして、法の水平的な次元と垂直的な次元に分けて言うと、水平的な次元というのがまさにリバタリアンな個人の活動を促進する、あるいはそういった権能を付与していく機能をもっている、と考えられます。そこで考慮すべきは、強制の過誤コストだけじゃなくて、門前払いのコストではないか。相手が間違っているのに裁判を起こすコストが高すぎるとか、そういった裁判で間違われるコストよりも、門前払いになるコストの方が、実は水平的な活動の規準からいうと、重要なコスト・ベネフィットの計算に入ってくるんじゃないか。

 もう一つ、これはちょっと細かい話ですが、コスト・ベネフィット計算でプラスかマイナスかという問題は、実は原告も被告も両方プラスのベネフィットになる可能性があって、というのもこれは事前の主観的な期待値の問題ですからね。そうすると結局、相手の期待値よりも自分の期待値が高くないと、訴訟は起こせないので、たんにプラスの期待値の状態だから訴訟するとは言えないんじゃないか。私のこの疑問は、誤りかどうかというのをお聞きしたいと思います。

 次に、根源的な規約主義の観点から何が言えるのかです。2005年の松岡論文が7ページのところにちょっと紹介されていて、研修所の見解を批判しているようなのですが、もう少し知りたいです。研修所的な発想というのは、原則と例外というパラダイムを垂直的な形で権威的に叩き込むわけですよね。そうすると、これに対する反論する松岡さんの立場は、水平的な、つまり多様な解釈を同等なものとして認めるということなのか。ご報告では、山田先生も松岡論文に沿って研修所を批判しているようにも見えるんですが、結論としてはそんな強い主張になっていない。原則/例外を厳密にシステマティックに教えることを批判したいのかどうか。したいとすれば、どういう批判なのかということをお伺いしたいです。

 嶋津先生へのコメントに移ります。迷信を信じることが進化につながる、という話をされましたが、進化の考え方をめぐってポパーとベルグソンの違いがありますね。迷信によってある種の密教教団を作って共同体を進化させようというのがベルグソン的な発想で、これに対してポパーはむしろ、批判的な淘汰によって進化を導くと考える。なんでこのルールに従うのかじゃなくて、なんで別のルールに従わないのかという、そこに反省的な理由を示して淘汰するわけですね。あっちよりこっちがいいという形で。ところがベルグソンの場合、他でありうる可能性については不可視化するので、迷信を信じて淘汰されてしまったら、それでおしまいです。迷信を信じても、進化しない場合があります。また、淘汰について反省しない、選択(セレクション)のない進化って、ちょっと難しいようにみえます。いずれにせよ、どっちの方が、ルールの進化と言うときに嶋津先生が採りたい立場なのか。ポパリアンとベルグソニアンというのはぜんぜん違うと思うのです。もし綜合するなら、これはどういうふうに綜合されるのかという問題です。

 ちなみにノージックは、この話を「決定の価値」という形で、『ネイチャー・オブ・ラショナリティー』でしていますね。たんに迷信を信じるというのではなくて、ある決断をするときに、プロテスタントだったらこれを選ぶという決断のなかに、その瞬間に価値を追加するわけです。そういったノージック的な発想っていうのは、取引コストを下げるという発想ではなくて、価値へのコミットメントによって不可視化するという発想なんですけれども。

 この話は次のカントに関係してきます。嶋津先生がここで、普通の凡人がカント的だというのは、僕はちょっと違和感があります。むしろ普通の人は、カントを読んでそれを理解したらカント的になるけれども、別の機会にヒュームを読んでそれを理解したら、ヒューム的になるのであって、思想的にはオポチュニストだと思うんですよね。だから、むしろ「囚人のジレンマ」状況では、結構悩むんじゃないかと思いますけれども。

 嶋津先生は「カント的進化ナショナリスト」とでも呼ぶべき立場を取っていのかもしれません。ただ多くの迷信はカント的な普遍倫理ではなく、対内倫理と対外倫理の二重構造をもっているのではないでしょうか。

 次に、嶋津先生が出しているウェーバー解釈は、大塚=ウェーバー解釈と言われているものですね。この解釈は、プロテスタントの信仰を資本主義の駆動因とみなして、それを積極的に評価するという立場に立ちます。そこで問題ですが、プロテスタントの倫理(すなわち勤勉に働くというエートス)がもはや調達できなくなったときに、資本主義はいかにして発展するのでしょうか。これがウェーバーの根本的な問題提起で、いま資本主義の駆動因というのは、どのようにして調達できるのか。たんなる迷信というだけでは、資本主義社会の文明を進化させる駆動因としては抽象的にすぎます。「カント的進化ナショナリスト」という倫理が可能であるとして、そのような信念は、本当に資本主義を駆動するのでしょうか。だとすれば、それはどんなものでしょうか。以上です。